考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

愛を語るには値しない偽善者共

僕の周りで愛や友情という綺麗事を語る偽善者共よ。愛を語っているならばそれを実践してくれないか。そうして、自らが言うように周りの人間を愛せばいい。僕は愛を語らない。人々が語る愛や友情というものが、もっと具体的に説明してくれないだろうか。どの様な関係が友情であり、なにがそうでないか。もし理性的で人を愛せるならば誰も苦労しない。愛の仕方を語っていながら、実際にキリストや神のように人を愛している人は何人いるだろうか。愛を語り、歌っているものよ。本で読んだ内容や幻想を語るのはやめてくれ。もしアガペーのような愛というものがあるというのなら、それを実践してくれ、それを実践している人物がいるのであれば、僕は心を開くだろう。僕が心を開いた人物がほんのひと握りであるという事実からわかるのは、人間は他者を愛する事ができない。人の愛は全ては自己愛に行き着く。我が徳や欲が満たされるが故に、他者と関わるのだ。

 

僕は人間の愛を信じない。信じる必要がない。それは紙の傘を刺し、雨を凌ごうとするほど滑稽な事である。人間の愛は自己愛である。この結論は他者に無償の愛を捧げようとした、私の経験からたどり着いた。どの様な人間を愛する事はできない。愛される人間は存在するだけで愛され、そうでない人間は誰にも愛されない。それは自己愛であり、他者から求められる人間というのは、他者の欲求を何らかの形で満たすことができる人間だ。その前提がなければ人間間の愛情はない。この世界の本質はすでにこうだったのだ。これのついて美しいとか、汚いとか判断するのはやめよう。死ぬまで同じような日々が何日も続くのであろう。人生とはまさに、毎日の様に溢れる欲望を満たすために生存するだけだ。

 

絶望より苦しいのは、現実とは一致しない思想を持つ事である。絶望とは救いである。初めは大きな拒絶と絶望を感じるが人間はどんな過酷な状況でも生きて行けるように作られている。人々に助けを与える事、それは一切無駄な事である。それぞれの人間は一人でどんな過酷な状況でも、問題を解決し、生きていく力を神から与えられているのに、他者が個人についてとやかく言うのは非常に失礼だと思わないか?一人の人間としてもお前は私の力がないと生きていくことができないと言われているようなものではないか。