考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

善悪の創造

我々は自らの独自性を常に外に出して生きている。我々は毎秒毎秒、外に影響を与え続ける。人間は集団の中で自らの価値を作り出す。その価値は必ずしも正しいとか限らない。それはその所属する集団の目的である。その中で競争が始まる。すなわち、これができる人間はよくて、できない人間はダメというものが生まれる。そのよくわからない競走に飲まれると、自分を見失う。集団の中での協力関係は聞こえは良いかもしれないが自己を弱くする。どの知識でさえ、自分で経験し、考え抜いたものでないと使うことはできない。他者の力を借りることはすなわち甘えることである。

 

僕が僕の好む、生き方で生きていく為には自らは強く、有能な人間でなければならない。僕は周りのシステムや機能に甘えているに過ぎない。弱者が食われ、道端で野垂れ死ぬのは、この世界の本質である。どれだけ他者を使い自分の力を増やすかを考えているのが人間というものだろう。

 

このようなことを口にするのであれば、僕がいうそのシステムを具体的に考えなければならない。まず、僕の国では、音楽と芸術に大きな価値を置く。金は関係ない。人の心を動かす何かが評価されるべきだろう。そして、金儲けではなく、生存に力をいれる。どのようにして生存していくかをいちから突き詰めていく。そして、人間の限界を超えた消費と生産をやめ、節約、そして、自ら自分の力でモノを生み出すことを善とする。狩や調理についてより深く考える。創造力を働かせてながら生きるのだ。そして、何十年先もこの暮らしで続けられるのかを考察する。我が国では、大きな社会全体ではなく、小さな個人を尊重する。そして、それぞれが社会について意見を述べ、環境に合わせながら変化してゆく組織だ。何よりもまず、自給自足からだ。自然の法則を理解し、自然を取り扱う。食事を当たり前と思わせない。その食事にありつく過程までも深くありたい。すべては考えられ、考察され、考え抜かれ、感謝される。他者に頼るのではなく、自ら生きることで、一日の濃度を上げるのだ。今の社会に生きていると、生きているのではなく、誰かに生かされていると感じることが多い。他者の欲望に動かされていると感じることが多い。

 

僕にとって他者の思想は価値がないものである。自ら考え、考慮した末に消化され、有効性を確認されたこそ、真の価値がある。他者の思想は糞であり、避けられるべきだ。