考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

悪意を経験した、又は悪意を感じた人

自分が悪意を感じ、他者不振に陥った経験があるため(または現在進行形で他者不振に陥っている。)、そういう人間の喋りや思想を考えると、彼らがどのように感じているのかがわかるようになってきた。彼らの声は震え、他者を思う気持ちはなく、自分の正しさを主張する。彼らの思想からは世界や社会に対する嫌悪が強く感じられる。その主張を聞いてみると、それが正しいか正しくないかではなく、その思想は社会や既存のルールへの反抗心で創造されたに過ぎないという印象を感じる。彼らの思想は真理ではなく、真理とはつまり現実であり、物心の本質であり、世界の秘密が大切なのではなく。彼らの思想は自らの存在を既存の価値観と比べ、正当化する為に生成されたに過ぎない。その思想には独自性がなく、自ら世界について考えたわけではなく、文化を否定する為に浅い考察で自らの存在を正当化する理由を並べているだけに過ぎないという印象を受ける。彼らの言葉からは知性というものは感じられない。彼らは強い自己愛に溢れ、誰もが敵意を持っていると現実を歪曲して考える。我々と敵という考え方を強く持つ。彼らは異常なほどに自立心が強く、世界の見方が歪んでいる。彼らは孤独の中で、独自の歪んだ思想を形成し、より他者から隔離されてゆく。まともな人間でそういう人間に近づこうとするものはいない。彼らは自らの思想によって他者を遠ざけ、そして孤独になる。私のような人間は本当に信頼できる人間を求めているが、他者もそのような人間を求めているため、奇跡的にそのような人間に出会え、再び、人間として他者に信頼を寄せることができる可能性は極めて低い。彼らの独自の思想は孤立を強め、自尊心を守るために形成されているが、自らから抜け出し、他者から受け入れられるためにはまず他人を信用し、ある特定の過程を踏まなければならないが、その過程を適用させるには、その精神状態では非常に難しい。本来、人間とは理性より感情の方が強い。彼らは感情に飲まれているようにも感じる。

 

現代では多様性という言葉が広く使われ、個人の個性を尊重することが歌われているが、その多様性と言う考えこそ、本質的な多様性を殺しているようにも思う。人間の本質は社会的な動物であり、同じ思想の人々と共にいたいと思うのは当たり前のことである。面白いことに全く違う人間で、接点も全くないのだが、インターネットで世界を見てみると自分と似たような思想にたどり着いている人を見かける。これはピーターソンが話していたことなのだが、人間の経験というものは個体の違い方から、世界の見方の違いがあるにしろ、同じような特徴を持つ人間の間では見事に共有されるのではないだろうか。それが物語になる。物語はまさに人間の経験から生まれた結晶ではないか。物語の語り手として、物語の本質というものは“作品”を読むだけでは、得ることは難しいではないだろうか。自らの痛みや経験や喜びは物語という料理を調理する為には大変重要な役割を果たすのではないか。僕はそう強く感じている。

 

他者に信頼を抱き、良い関係を築けている人間は素朴であるのか、又は幸運であるのかであろう。人間の心理を掘り下げて見ると、誰もが信頼に足る人間であることではないことがわかる。誰もが他者を批判し、軽蔑し、判断し、何を考えているかもわかりはしない。僕は今、他者を信頼できる人間の気持ちがわからない。他者は僕にとって敵に見える。しかし、私は人を愛し、充実した日々を送った経験があるのだ。その経験があるこそ、今の状態が非常に辛く感じる。人間であるが故の痛みというものがある。この痛みを物語という道具を使って人々と共有できたらいいのだが。