考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

お笑いについて1

お笑いとは人を笑わせる仕事である。最近はよく、笑いについて考えている。笑うことは健康に良いと言われているが、だからといって本当に良いことなのか。僕のこれまでの経験によると、笑われている側は心の中にモヤモヤを残す。笑うのは気持ちがいいことだが、笑えわれる側は気持ちがいいものではないのだ。それを含めて、芸人は楽しみを提供する仕事として働いている。

 

人はなぜ笑うのかというメカニズムはさまざまな哲学者が議論してきた。期待する事象とは違う出来事が起きたから笑うという考え方がある。そして、ある事象に対して見下し、笑うことによって、その対象を下げることで相対的に自分が上に立つという社会的な側面もあると考える。完全に無意識下の中で、見下すものと見下されるものが笑いには存在する。平均外、既存ではない存在、理解できない存在を人は笑うのではないか。

 

笑いを取ろうとした後、大きく後悔することがある。なぜあんな事が面白いと思ったのか後でわからなくなる事が多い。多くの哲学者は笑いを嫌ったというが、なんとなくわかる気がする。笑いなどなくても生きていける。笑いの本質である見下しは消えないからだ。相手の気持ちを考えるのならば、笑いの対象を人にしてはいけないと僕は考える。しかし、笑いは生存によく使える。どれだけ過酷な環境でもその環境を客観視し、笑う事ができる。ヴィクトールフランクルは夜と霧で笑いの有効性について語った。彼は過酷な環境で笑いを使って乗り越える事ができた。笑いにはそのような作用があるのは確かだが、ブラックジョークなど人を傷つけるものもあるのが確かだ。

 

様々な議論が可能だがまだ頭の整理ができていないので深くは考えないでおく。お笑い芸人などは社会的に他者を見下すことにより、社会的地位を確保しようとしているのだろうか?あのような人物たちは人を笑わせることが第一であり、力を求めているわけではないと思う。それゆえ、彼らが行う弄り、ボケ、ツッコミは全てその場のノリであり、演技である。ドラマの俳優が演技をしているのとなんら変わらない。なのでお笑い芸人として笑われ、笑いを取るのは、お互いの人間の間で作られたルール守りながら、視聴者の楽しい時間を提供していることになるが、やはり、本質的に笑われる側は良い気分がしないことには変わりはないだろう。あくまでも、仕事やプロ意識という観念で、それを続けているにすぎない。