考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

便利なオンライン社会を見限る理由

我々は人間である。どんなに“周り”の環境が変わろうが、人間であることに変わりはない。どれだけ技術が進歩しようが、人間であることから来る問題は避けられないと思われる。食事などの”生きる“ことは畑の耕し方など、新たな知識を学ぶことによって、進歩しているが、“生きている”ことと幸福とでは全く別ものだと考えている。生きることと幸福であることは同じではない。不幸なものにとって生きることは全くの無意味な行為であり、苦痛であることもあるかもしれない。僕はそう感じる。

 

技術の進歩も長生きすることも人間にはあまり重要でないと思う。問題は生きている瞬間に、どう感じるかが大切ではないか。技術の進歩はそこはあまり考えられていないし、ネット社会になり、全てが便利になればなるほど、“生きる”ことは良いになるが、満ち溢れ、楽しいと感じる瞬間は非常に減っているように感じる。我々は生きているわけではなく、存在しているだけではないか。

 

僕は社会の流れの逆を行こうと思う。社会とは離れて生きる。なぜならこの社会はタイタニック号であると考えているからだ。沈むと思う船に乗っていられるほど、僕はバカではない。しかし、僕は社会全般を否定してるわけではない。素晴らしい側面も大きい。しかし、気に入らないことが多い。自分と他者では価値が大きく変わる。僕は僕の自分の声を聞く。ここで性格も考え方も違っている。であるならば、僕と違う人間の声を聞いて何になるのであろうか。

 

人生は最終的の自分の中で収束する。他者の感情も全て、僕は感じることができない。推測することは可能だが、それは推測に過ぎない。何を考えているかもわからない。人々は真実を話さないのならば、他者と関わる意味はないのではないか。全ては自分の快楽ではないのか。

 

オンライン社会では、僕と関係ない人間の欲望で溢れていて、自分を見失うことが多い。社会もそうだ。集団の中では個人を失う。僕は幸せにしない世界には興味がないし、近づく必要がない。全ては“僕”の基準で決まる。