考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

共感について

他者に自分の気持ちを共感することを期待することは極めて愚かな行為であるような気がする。それは他者に心が読めるエスパーになるように求める行為であり、僕のような惨めな人間である場合は、特に自分ではなく、他者に心を読むことを求めるのではないだろうか。まず第一に人間の関心は常の自分自身ということを忘れてはいけない。共感に必要なのは、まず始めに相手の立場になってみる必要がある。これが第一条件である。共感とは自分はある時にこう感じたから、こういう時にこうして欲しいと自分の感情を他者に投影することである。したがって、同じ立場のなってみないと相手は何を欲しているのかがわからない。実際に絵を描いた人間でないと、絵を描く人の試行錯誤や本当はどれだけ凄いのかを真に理解することはできない。物語を実際の作ってみないと、物語を語る難しさは理解できない。

 

つまり、ある人間が共感できる範囲は個人の個性や経験によって異なる。絵を描く人間の気持ちを一般の人間に理解して欲しいと思っても、絵を描く人間は少数なので、絵を見た人間は心のない評価を下すことの方が多いように感じる。彼らはどの技法や絵の後ろにある感情ではなく、かっこいいか、上手いかという絵を描いている側からしたら、もっと深い議論をしてくれないのか!?と思えるような浅い評価を下す。僕はいくらか心をそのような評価で傷つけられたことが多々あるが、人間とはそういうものだと思うことができれば、いくらかましになるかもしれない。個人が平均から離れれば離れるほど、共感されることはなくなっていく。人々は自分と近しい人と一緒にいたいと思うのではないだろうか。そういう風にできているのではないだろうか。

 

他者に共感を求めることは馬鹿である。共感されないことが当たり前だと理解し、真に共感された時に「この人は私の感情を体験したことがあるのか。」と心の中で確認するくらいで良いのではないか。我々は理解できないのが普通であり、理解されるのが異常だと認識でいれば、周りに振り回されることは少なくなるのだろうか。