考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

僕は人生の何に期待しているのだろうか

ショーペンハウアーの本の朗読をYouTubeでいくつか聞いていた。世界について深い考察がされていた。自殺について彼が書いていたのは、自殺は生の否定ではなく、強烈な肯定から来るという事だった。開いた口が塞がらなかった。

 

社会のあり方に文句を言いながら、よく自殺を考えている僕は生を強く肯定していたのだ。クソみたいな人生と口ではいいながら、生きることを止められない滑稽な人間が僕だった。そこまで生きるが嫌ならば、生きることをやめればいい。つまり、求める事をやめればいいのだ。自殺の本質は物事がうまくいかない。自分の思い通りにことが進まないことが苦悩であるから、それに耐えられないから死ぬということなんだろう。

 

仏教の教えの本質は生きながら、死ぬ事であると聞いた事がある。ここ死ぬとは肉体的に死ぬのではなく、生の象徴である欲望を殺すこと、生の根本的な否定ではないだろうか。その考えはキリスト教の教えとは異なるかもしれない。キリスト教では生を肯定することが根本的な教義となっている。

 

僕はここまで生を肯定していたのか、と思い知らされた。そして、僕の生活の様々な諸事情にここまで固執していたのか。性愛、社会的地位などを強く欲求しているということはやはり僕は生きている。しかし、これらの欲望は本当に満たされることはないだろう。なぜなら、これが心から満たされてしまったら更に上を求める欲求がなくなってしまうからだ。だから、期待が満たされたという想像の中で感じる感覚こそ、僕にとってどの現実の経験でも勝る事ができない幸福であるような気がする。

 

想像力に現実が勝てるわけがない。人が本当に満たされるのは、夢や目標を叶えた時ではなく、それを想像している時であるのではないか。

社会が当たり前としていること

周りの人間が思考もせずに、ただ盲目的に信じられた、“彼ら”にとっての真実を押し付けられる構図に強い嫌悪感がしてきた。世の中がいう“普通”には飽き飽きしてきた。僕についてきて欲しいのならば、僕を納得させられるだけの理由が必要だ。「普通そうでしょ。」

お笑いについて1

お笑いとは人を笑わせる仕事である。最近はよく、笑いについて考えている。笑うことは健康に良いと言われているが、だからといって本当に良いことなのか。僕のこれまでの経験によると、笑われている側は心の中にモヤモヤを残す。笑うのは気持ちがいいことだが、笑えわれる側は気持ちがいいものではないのだ。それを含めて、芸人は楽しみを提供する仕事として働いている。

 

人はなぜ笑うのかというメカニズムはさまざまな哲学者が議論してきた。期待する事象とは違う出来事が起きたから笑うという考え方がある。そして、ある事象に対して見下し、笑うことによって、その対象を下げることで相対的に自分が上に立つという社会的な側面もあると考える。完全に無意識下の中で、見下すものと見下されるものが笑いには存在する。平均外、既存ではない存在、理解できない存在を人は笑うのではないか。

 

笑いを取ろうとした後、大きく後悔することがある。なぜあんな事が面白いと思ったのか後でわからなくなる事が多い。多くの哲学者は笑いを嫌ったというが、なんとなくわかる気がする。笑いなどなくても生きていける。笑いの本質である見下しは消えないからだ。相手の気持ちを考えるのならば、笑いの対象を人にしてはいけないと僕は考える。しかし、笑いは生存によく使える。どれだけ過酷な環境でもその環境を客観視し、笑う事ができる。ヴィクトールフランクルは夜と霧で笑いの有効性について語った。彼は過酷な環境で笑いを使って乗り越える事ができた。笑いにはそのような作用があるのは確かだが、ブラックジョークなど人を傷つけるものもあるのが確かだ。

 

様々な議論が可能だがまだ頭の整理ができていないので深くは考えないでおく。お笑い芸人などは社会的に他者を見下すことにより、社会的地位を確保しようとしているのだろうか?あのような人物たちは人を笑わせることが第一であり、力を求めているわけではないと思う。それゆえ、彼らが行う弄り、ボケ、ツッコミは全てその場のノリであり、演技である。ドラマの俳優が演技をしているのとなんら変わらない。なのでお笑い芸人として笑われ、笑いを取るのは、お互いの人間の間で作られたルール守りながら、視聴者の楽しい時間を提供していることになるが、やはり、本質的に笑われる側は良い気分がしないことには変わりはないだろう。あくまでも、仕事やプロ意識という観念で、それを続けているにすぎない。

中毒

中毒は良くないことだと考えられているが、別にそこまでのことだと思う。中毒は良くも悪くもない、ニュートラルなことだと思う。例えば、毎日、散歩することに中毒のなっている人がいたとしよう。それは良くないのだろうか。しかし、ゲーム中毒になることは散歩中毒以上に悪と言われることがある。なぜだろうか。我々は楽しいと思えることをしているだけである。そして、生活の中で最も楽しいと思える事柄に中毒になる。

 

もしゲームなどのよくないと言われている中毒を辞めたいと思っているならば、それ以上に楽しいことを見つければいいのではないか。そして、それに中毒になること。やめられないのは大抵、それ以上に楽しい事柄が見つかっていない状態である。無理やり辞めようにも、人間は安心できる、楽しいことに惹きつけられるが故に、抜け出すことができない。

 

僕はゲーム中毒者であるが、中毒に気づき、前に進むためは一回、狂うまで依存してみるのもいいかも知れない。他にも様々な事柄を試してみてみるのも良い。ゲームより楽しい何かが見つかる可能性がある。それを見つけた瞬間、それらは必要じゃなくなるのだ。そして、新たな中毒を見つけることができる。

 

最終的にゲームがなによりも楽しいと思うのならば、それもいいのではないか。ゲームはお前さんを選んだのかもしれない。私はゲーム以上の快楽は存在すると知っている故にいつかゲームを辞める時が来るだろう。

気持ちいい

文章を書くのは気持ちいい。いや、本当に。どれだけゲームをするよりも文章を書くことは気持ちいい。それを理解できたことは僕にとって大きい。なぜなら、書くことはこの世の中で一番、お金はかからないであろう趣味だからだ。そして、一人でも書くことができる。他者を必要としない。つまり、自給自足が可能だということだ。世界には様々な趣味があるが、書くことはを愛することができ、よかったと思う。どんな美味しい飯を食べるよりも、どんな性的快感よりも書くことは気持ちがいい。

 

金がかからず、一人ででき、他者を必要としない趣味・・・。最高である。最近はゲームでよく遊んでいるが、ゲームより文章の方が上達したいと思うようになってきた。ゲームより気持ちよく、楽しいからだ。もし美しい文章を書くことができれば、他者に影響を与えることができる。何より僕が尊敬する著者達と同じ土俵に立つことができる。彼らのようになりたい。なれないかも知れないが、それでもいい。僕が書くことを選んだのではなく、書くことが僕を選んだのだ。それ以上の喜びはない。

なぜ僕が他者の心の支えのならなければならないのか

なぜ僕が他者の心の支えにならなければならないのか。最近は、家族への憎悪が止まらないでいる。子供は親から生まれ、経済的な援助を受ける。だからといって、生まれること、そして、生き、教育を受けさせることを選択することは親がすることだ。小さな子供は、放置すれば死ぬ。だからといって子供と親にはそれ以上の関係は存在しない。親が産み、親が自分のために育てる。

 

親が気に食わないのは仕方がない。自分の殻に閉じこもり、教養を受け、深めようとするつもりがない。人は与えられたプログラムを走らせているの過ぎない。それは親や環境は与えたプログラムであり、そのプログラムが必ずしも正しいとは限らない。そのプログラムの存在を意識し、書き換える方法を学ばなければ、我々は猿の延長線上にいるに過ぎない。本当に人間になるには、全てを変える必要がある。

 

僕が愛する哲学とはこのプログラムについての思考である。そのプログラムが現実を生きるにあたって有効であるかを確認し、バグがあるのならば、書き換え、整理することを哲学というのだろう。

 

母親の精神の安定を他者に頼ろうとし、自分では何も変えようとしない態度や性格には強い嫌悪感を抱いているが、これが女というものなのであれば、受け入れなければならないのであろう。そして、父親に尊敬の態度を示さないあの態度は非常に見ていて、腹が立つ。父親も僕を一人の人間として尊重しようという感覚がないので非常のイライラする。早く一人暮らしをすればマシになるかもしれない。

愛を語るには値しない偽善者共

僕の周りで愛や友情という綺麗事を語る偽善者共よ。愛を語っているならばそれを実践してくれないか。そうして、自らが言うように周りの人間を愛せばいい。僕は愛を語らない。人々が語る愛や友情というものが、もっと具体的に説明してくれないだろうか。どの様な関係が友情であり、なにがそうでないか。もし理性的で人を愛せるならば誰も苦労しない。愛の仕方を語っていながら、実際にキリストや神のように人を愛している人は何人いるだろうか。愛を語り、歌っているものよ。本で読んだ内容や幻想を語るのはやめてくれ。もしアガペーのような愛というものがあるというのなら、それを実践してくれ、それを実践している人物がいるのであれば、僕は心を開くだろう。僕が心を開いた人物がほんのひと握りであるという事実からわかるのは、人間は他者を愛する事ができない。人の愛は全ては自己愛に行き着く。我が徳や欲が満たされるが故に、他者と関わるのだ。

 

僕は人間の愛を信じない。信じる必要がない。それは紙の傘を刺し、雨を凌ごうとするほど滑稽な事である。人間の愛は自己愛である。この結論は他者に無償の愛を捧げようとした、私の経験からたどり着いた。どの様な人間を愛する事はできない。愛される人間は存在するだけで愛され、そうでない人間は誰にも愛されない。それは自己愛であり、他者から求められる人間というのは、他者の欲求を何らかの形で満たすことができる人間だ。その前提がなければ人間間の愛情はない。この世界の本質はすでにこうだったのだ。これのついて美しいとか、汚いとか判断するのはやめよう。死ぬまで同じような日々が何日も続くのであろう。人生とはまさに、毎日の様に溢れる欲望を満たすために生存するだけだ。

 

絶望より苦しいのは、現実とは一致しない思想を持つ事である。絶望とは救いである。初めは大きな拒絶と絶望を感じるが人間はどんな過酷な状況でも生きて行けるように作られている。人々に助けを与える事、それは一切無駄な事である。それぞれの人間は一人でどんな過酷な状況でも、問題を解決し、生きていく力を神から与えられているのに、他者が個人についてとやかく言うのは非常に失礼だと思わないか?一人の人間としてもお前は私の力がないと生きていくことができないと言われているようなものではないか。