考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

バカである

私とエリオットロージャーの大きな過ちとは、“女”に救済を求めたことである。女とか何者かを観察し、理解するほどの知性がなかった故に全く無駄な努力をすることとなる。即ち、自分の苦しみや精神の救いを求め、女から承認されるという手段を使おうとしたことである。しかし、その外面の良い宝箱を開けたところで欲しいものは入っていなかった。

 

私たちが求めているのは神の愛であろう。無条件の愛であり、そこに存在していいという安心感を必要としている。それは人間の居場所であり、人間として生きているのならば、壊れていない限り必要とされる。しかし、残念ながらそれは外にはないことを理解する必要があった。他人の中に無条件の愛はない。他者の愛や親切というのは普通、自分に徳がある時にだけ行われる。誰もが自己中心から抜け出すことはできないのである。それは本能であり、人間である。愛を求めるなら神に求めた方が良い。キリスト教のような宗教はその点では、大いに役立つと思われる。必ずしも現代の人間に認められるという居場所でなければならないということはない。神やキリストといったキャラクターに認められているという信仰は心に大きな安心感を与えるのだろう。

 

 

上から目線の評価している人間

どうしても好きになれないのが、掲示板やYouTubeなどで作品を評価する人間である。僕もそういう人間の一人であることに変わりはないのだが、掲示板の人間の文章を見ていると気持ち悪くなる。なぜなら、僕にとってつまらないと感じる作品について、考える時間がないからである。それはまさにずっと嫌いな人のことを考えている人間のように、全く時間の無駄であるように思える。

 

そのように評価するよりは、僕は僕が愛している作品に触れている方が幸せだと感じる。僕が作品を批判するのは、僕の感性は間違っていないと共感を求める時だけである。なぜなら他者と違う好みだと不安になる事が多い。だからこそ、自分を正当化するために批判をするだけである。その批判は間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない。ただ、僕は面白いと思ったものを面白いと言い、つまらないと思ったものはつまらないと言っている。それだけである。

 

そうして、最終的の行き着いたのが古典信仰である。大衆向けの作品には、古典にある深さが欠けていると感じる。それは読者の時間を浪費させるだけであり、数年後には忘れてしまう物語である。古典は多くの人間に読み継がれた実績があり、次世代に渡されるだけの何かが作品に詰め込まれている。僕がなぜ古典を読み出したかがわからない。気がついたらストア派哲学の本を読んでいたが、古典を読んでしまうと、他者が普段楽しんでいる大衆の娯楽が一切面白いと思えなくなってしまったのだ。これに共感できる人はいるだろうか・・・?僕は知的刺激を愛している傾向があるので、それが少ない大衆作品では物足りないと思ってしまうのかもしれない。

僕は

僕は理性で物事を理解するように努めているが、無意識に感情的になっている。僕の経験は僕が人間であるという以上は何らかの人間フィルターを通して理解することしかできないのだろう。例えば、善し悪しの判断は無意識に周りから与えられたものである。

 

僕が文章で偉そうに語っているが、自分が語るように生きる事ができたことはほぼない。それだけ世界への理解が深まっていても、行動はあまり変わらないとなると、理性はそこまで強くない事がわかる。

tribalism

我々と他者の違いを強調する。仲間か敵か。僕は正直、そういうのは糞ほどどうでもいいが。僕は僕として生きる事ができれば、他人はどうでもいいのだが。僕は世界の観察から自分なりのシステムを作り出す。

 

人々が宗教のようなというものはそれ自体を宗教と感じているのではなく、自分が所属する集団の思想と似ていないという感覚にすぎない。そして、そういう人間は世界を見てみると多々いる為、彼らは人間の思想がどれほど環境で違う変化を遂げ、それぞれ進化していくかわかっていない。そういう人間は自分の殻を破る事ができない。

 

世界の見方は多くある。キリスト教の最終目標は世界を一つの集団とし、誰もが仲間であるという感覚を提供することに思える。それが天国である。人間には本来、敵と味方という構図を作られる性質があるのだろうが、それを超えどうすれば幸福になれるのだろうかと、最終的にたどり着いたのが愛であるのではないか。

描きたい物語

物事が上手くいかず、世界のあり方を歪曲して見始める、最終的に社会復讐を決意し、バッドエンドで終わる物語が描きたい。事がちゃんと上手くいっている時も描く。主人公はいじめられている。いじめは人間のデフォルト設定なのではないか。

女について思考

昔の女はわからないが、現代の女はインターネットの影響もあり、非常に偏っていると思うことがある。現代で、周りを見渡し、女というものを観察してみると、女とは面白いと思える存在ではなく、誰もが全く同じ思想をした生物のようである感じる。つまり、同じ集団に所属し、同じ思想を信じ、同じことを考えているのではないか。同じ有名人を大人数の女が崇拝し、彼らに服従する。この社会はバグっているのではないか?と考える事が多い。女が女であるのは良いのだが、多くの人間が同じ社会に所属し、集団として暮らしている。現代というのが、異常ではないのかと考える。即ち、人口と集団の拡大である。

 

我々が考える普通は異常ではないか。複雑であり、毎日数えきれないほどの人間と繋がっている現代は、僕が抱える苦しみの根源であり、現実を偉大な思想から教えてもらうと、僕の人間としての現状がいかに絶望的であるかがわかる。何よりもまず、人間はある一種の嘘に守られなければならない。我らは素晴らしく、正しく、人生には意味があると思い込むことによって発狂から目を逸らしているのではないだろうか。考えれば考えるほど、この世界はよくわからなくなっていく。