考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

善悪、集団、個人、道徳

生きていると驚くような経験をして、考え方が変わることもあるだろう。専門学校に入るまでは、人は大体いい奴と考えていた。専門学校に入ったあと、人は自己中的であり、僕が想像もできないような酷いことをする人間もいるという考え方(そういう人間は多数ではないと信じたい)に変わった。最近、善悪の考えがほんの少しだけ変わった。少し前までは善悪の定義が少し狭かった。「“個人”にとって有益になるものは善、“個人”にとって脅威になるものは悪」と考えていた。猫とゴキブリを考えるとわかりやすいと思う。川で溺れる猫を見つけた人はその猫を泳いで助けるかもしれない。しかし、川で溺れるゴキブリをわざわざ助けようとする人は少数であろう。ゴキブリは多くの人間に嫌われている。ゴキブリのデザインに人が嫌悪感を抱きやすく、嫌われるのだろう。多くの人間にとって「猫は善であり、ゴキブリは悪」である。必ずしもゴキブリが悪いわけではない。それは人間の自分勝手なあまりにも個人的な解釈である。

 

本を読み、新たな経験を経て、僕は善悪の定義を広げた。個人だけでなく、「“集団”にとって有益であるものは善、“集団”にとって脅威であるものは悪」も善悪の問題の含まれるであろう。犯罪を犯した犯罪者を刑務所に入れるのは、彼らは集団の脅威だからである。厳密に言えば、社会という集団に属する人々への脅威である。だから社会は犯罪者を隔離する。「社会にとって犯罪者は悪である」ここで集団と個人の避けられない戦いが始まる。集団の善が必ずしも個人の善とは限らないからだ。自分の利益を追求し始めると、社会やルールが邪魔になってくる。僕は反社会性、反道徳と自己愛(ナルシシズム)は大きく関係していると思っている。世界の中心が自分に向けば向くほど、道徳やルールを破りやすい。サイコパスに道徳やルールはない。道徳やルールを考える前提条件は、共感力があるかどうかだ。サイコパスやナルシストの問題は共感力の欠如である。共感力がある人間も自分のことが大切であるが、自分が嫌だと思うことを、相手も同じように嫌だと感じるかもしれないという感情の投影が可能である。その共通の経験から人間の間で「これはされたら嫌だから、なしね!」とスムーズに、楽しくやりとりできるようにさまざまなルールが形成される。そして、それらのルールは個人の安心と社会を安定させるのに不可欠であり、それが道徳や法律の基礎になっていると考えられる。

 

ルールは個人を縛る。避けられない。しかし、ルールは集団には必要なことである。ルールがなければ誰もが好き勝手な行動をして、無法地帯になり、誰も落ち着いて暮らせない。僕たちが夜、安心して寝れるのは、ルールがあるからである。もし、誰でも殺して金を奪ってもオッケーという世の中だったら、誰が夜ぐっすり眠れるだろうか?大体の人間は社会のルールに守られているし、そこから夜、安心して眠れるという利益を享受している。

 

何事もバランスが必要である。個人が幸福に感じ、社会が繁栄できるバランスを探す必要がある。それは簡単なことではないと思う。集団が大きくなればなるほど、統率が難しくなる。現代では、社会という集団の中に、小さなサブ集団が多数生まれているように思える。それぞれがそれぞれの思想のもと、好き勝手に動いているのである。現代社会とは実に統率の取れていない集団ではないか。若者がゲームやYoutubeばかり見て、政治に興味がないのは、世も末だと思う。現実と虚構の狭間が広がっていく。人間の性質というのはいつになっても変わらないのだろうが、今の僕が生きている社会は非常にまずいと思っている。インターネットがなかなか面倒くさい役割をしている。

 

次は社会と現実のミスマッチについて考えたい。