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学校とテストの重要性

脳は自分の興味がある知識を得るようにできているような傾向がある、とこれまでの自身の経験から仮定する。他人の脳の構造はわからないし、僕は科学者ではないので、自分自身の脳の傾向を観察することしかできない。または数人しかいない友達にそれぞれの傾向を質問し、調査することもできる。しかし、科学者のように大規模な実験をすることはできない。しかし、今の僕にはこのようにして知識を広げていくしかない。その好きな知識を吸収するという傾向は長所にもなり、短所にもなる。僕は自分が好きな教科だったらなんだってやる。なんだって調べる。それが楽しいからだ。しかし、それだと興味があり、楽しいと思える教科や知識しか勉強しないということにも繋がる。脳は問題を解決するという必要性を感じなければ、働こうと思わない。

 

僕は面白いと思うことはなんでも勉強する。楽しいからだ。しかし、苦手だと思うことはできるだけ遠ざけてしまう傾向がある。僕は心理学に興味があり、心理学について深く勉強しているが、その他の関心のないジャンルにはあまり手がつけられていない。自分の好きなことだけを勉強していると、知識のバランスが崩壊する。ある特定のことには詳しいのに、話が興味の関心の外に行ってしまうと、全然答えられないという事が生じる。ある特定の知識が豊富な専門家としては悪くないかもしれないが、何か新しい発想や発見というのは様々な分野の理解や知識の繋がりからもたらされると仮定する。好きなことだけを勉強していては、脳内の関係を繋ぐ回路に偏りが生じる。この問題を解決する方法の一つとして、本記事の学校とテストが関わってくる。

 

学校とテストの重要性を感じ始めたのは、つい最近であり、記憶や脳について勉強してからだ。どうすれば、頭が良くなるのかを深く考えていた。頭の良さや容量の良さが、僕の今後の人生に大きく関わってくると考えている。頭がよくて、今後、損することは少ない。生きていれば、解決しなければいけないことが、絶えず起こる。その時、知識は問題を解決するツールになる。もし僕がこの世界で生きるという選択をするのならば、知性や知識が無駄になることはない。学校やテストの勉強は外からの強制されていることだ。僕は子供の頃、なぜ学校に行き、勉強するのか全くわからなかった。勉強して、なんの意味があるのか。知識を使って人生問題を解決するという、勉強するメリット(別記事)を読書をするうちに知り、学校の便利さに気づいた。学校の先生は何も教えてくれなかった。

 

学校の勉強は、生きていく上で必要とされる教科を学ぶ。今考えると、学校に行き、それぞれの教科を満遍なく、勉強するというのはなんと素晴らしい機会ではないかと感じる。それぞれの教科は全く別物のように教えられるが、実はそれぞれはどこかで繋がっている。それぞれを比較しながら、広く知識を深めていく。今の僕に最も必要とされる勉強方だ。外からの強制がなく、独学だと、どうしても勉強する範囲が偏ってしまう。

 

学校というテストも学習に大きな効果を得る。誰かが設定した問題を解く。そこには記憶の定着で最も重要である、学んだことを思い出し、知識を再構築する流れが必要とされる。その機会を外からの与えられるのは非常にありがたい。僕は人生の流れは受動と主体の繰り返しであると考えている。どのような物語も必ず、何か解決しなければならない“問題”が発生する。問題の発生は受動的なことだ。問題は起きるものだ。その問題を解決するために、人々は“主体的”になり、その問題を解決していく。学校は問題を提供してくれるのだ。時に、ただ一人で考えているだけだと、問題が見つからないことがある。外からの刺激(外部からの問題提供)が、自分が主体的になるきっかけを与えてくれることもある。今の社会は問題が少なすぎる。問題が少ないというより、問題は自分ではなく、誰かが解決してくれるものという認識だ。現代人は甘え、他者を信用し過ぎている。人間なんて本質的に自己中心的な生き物だというのに。

 

僕は学校とテストをこれからの利用していきたい。僕は独学では限界があると考えている。もしかしたら、外からのプレッシャーなしで自分から外に働きかけることができる人間もいるかもしれない。しかし、自制心が弱い僕には外からの刺激に頼らないければ、行動できないことが多々ある。だからこそ、僕には外からの“プレッシャー”を利用する、自分を成長させる戦略が必要になる。