考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

2021/01/15 残す

世界は刻々と変化していく。僕が日記を書く理由は変化する世界への力のない一個人の抵抗だ。はてなブログのサーバーが生きている限り、この文章はこのサイトに残り続ける。我々が書く文章は命を宿す。多くの本はその著書の肉体が死んでも広く読まれている。言葉は時を超越するのだ。彼らは物理的に死んでいるかもしれないが、見えない何処かで生きているかもしれない。死者が今なお、多くの人間の影響を与え続けている。なんと恐ろしい話ではないか。昔から肉体と精神が分かれていると言われている。僕はそう結論づけた人々の気持ちがわかる気がする。ワンピースのあるキャラクターの名言と言われている言葉に「人間が死ぬのは誰かから忘れられた時である。」というのがある。僕はそのあまりにも他者依存の考え方があまり好きではない。この考え方はロマンチックだと思うが、この考え方はいかにも限定的である。覚えられている→価値がある、そして、忘れられた→価値がないという極端な結論に達することができる。僕はこの限定的な愛が嫌いだ。

 

まず人間の命なんて意味はない。命の意味は個人的なものであって、外の人間はどうにもならない。人生の終わりはいつも一人である。いくら誰かが手を握っていようと、いないと最後は一人で落ちるのである。誰かにとっては、どこにでもある腕時計であるが、自分にとっては大切な愛着が湧いていることがある。異性だってそうだ。電車ですれ違う女性といつも一緒に遊ぶ女性では意味が変わってくる。それと同じく、自分の人生がどういう意味を持っているかは自分で決めるのが自然じゃないだろうか?他の誰かに命の価値を託すのは、間違っているのではないか?

 

最近、周りの人との考え方の違いに悩まされることが多々ある。周りの人々の話についていけないのだ。彼らは話題はゲーム、アニメ、ゴシップである。Vtuberの話、ゲーム実況者の話、そして、周りの人間の話。僕はなんで彼らがこういう話を好むのか理解はできるが、僕はあまりそういう話をしたいと思わない。理由は何となくわかっている。読書のせいだ。読書によって他者の言葉を体内の入れることは世界の再構築することである。そして、あらゆる哲学者や科学者の世界の見方を知っている僕とデフォルトの世界の見方をしている周りの人との間で大きな溝ができているのではないかと考えている。趣味も大きく違う。今は読書が一番好きだ。周りの人々は本を読まない。大体の人間は近い価値観の人と一緒にいることを好むのではないか?考え方が近いと、自身の考え方に何か大きな反論を言ってことはないし、何よりもまず安心できる。理解できない人間を遠ざけるのは、悪い戦略ではない。理解できない人はヤバい奴が多い。身内でいたほうが安全である。そういう嫌悪など恐怖などの感情は本来、自分の身を守る為にある。感情は良いものでもないし、悪いものでもない。