考えるために書き、生きるために考えるブログ

書くことは考えることである。

過程と完成品

口に食べ物を入れ、胃で消化し、糞として外に排泄する。これは僕の自論なのだが、文章や絵などの様々な芸術形式はこのような流れで生成されていると考えている。これを言ってしまえば、多くの人間から批判されるかもしれないが、僕にとって生み出された文章や絵は糞のようなものだ。

 

咀嚼、消化、糞のいう流れの工程を経て、作品は生成する。その中で、僕が一番大切だと思う工程は消化である。最終段階である作品に重点を置く人が多いかもしれないが、僕にとって作品は消化の作業の結果(糞)に過ぎない。口の中に入れた食べ物の栄養分を胃の中で、体内に吸収する過程が最も大切だと考えている。例えば、読書から得られるアイデアを理解する過程で考えてみる。本を読むことでアイデアを体内に吸収する。しかし、胃の中で体に必要な栄養分な成分を吸収しなければ、そのアイデアから得た栄養分を使って生きていく事ができない。食事の消化はあたかも体が、勝手にやってくれているように感じるが、血液は全身を動き回り、身体中全体は消化を促すために動いている。消化するというのは、立派な“動詞”である。本を読むだけではなく、頭の中で考え、そのアイデアについてよく考え、自分のものにする(消化する)流れが、僕の人生で最も欠けていた部分である。理解していることを、文章にすることはまさに消化の過程の作業である。理解している内容を、読者にわかりやすく言語に直す。その過程の中で、その理解は本当に自分のものになる。今まで、本を読み、満足して、理解したつもりになっただけの読書を何回繰り返したことか。この工程は、絵や映像作品でも全く同じだと思える。デッサンを描くという作業はモチーフを“吸収”する作業であり、デッサンの作品というにはただの“糞”に過ぎない。最も大切なのは、モチーフを見て、理解して、白いキャンパスの上に再構築しながら、体の中の吸収する家庭である。

 

僕の表現者としての目標は出来るだけ良いものを食べて、できるだけ、誰かの役に立ちそうな質の良い糞を出すことだ。その糞が誰か人生の肥やしになるかもしれない。しかし、その糞は肥やしとして役には立つかもしれないが、誰もが自らが食事して、消化し、排泄する代替にはならないことを忘れてはいけない。それはそれぞれの個人に与えられた、人生の仕事なのだ。